研究背景
土方歳三は、幕末期において新撰組の副長として活躍した人物である。新撰組を少しでも知っている人には、鬼の副長や血も涙もない冷酷な男のイメージを持つ人もいるだろう。そんな土方歳三だが、新撰組の組織運営や戦闘に関する戦略についてはよく語られているが、彼の死生観がどの様に形成されていき、その後の行動にどの様な影響を与えたのかを語る文献は少ない。
本研究の目的は土方歳三の人生から死生観を分析し、それが彼や彼の部下にどの様な影響を及ぼしたかを明らかにすることである。具体的には彼の幼少期から新撰組の副長になるまでの人生や部下との関係に着目する。
研究の方法として土方歳三の生涯に関する資料や文献の調査。
幼少期から青年期まで
土方は幼少期から青年期の間に2回奉公を行なっている。一度目は十一歳の時である。呉服屋商の小僧となったが、店の人と喧嘩をしてしまい、生家まで夜通し歩いて戻った。二度目は十七歳の時。奉公明けのころ、 「武人になり、名を天下にあげたい」という思いを抑えきれず、十七歳で天然理心流に入門をした。その後は、日野宿・佐藤邸に入り浸り、家伝の「石田散薬」という打ち身、捻挫に利く飲み薬を背負って行商に出掛け、その道中で他流試合を申し込むなどして剣術修行に明け暮れた。この出来事が試衛館との接点であった。試衛館の道場にはのちに新撰組局長として共に戦い続ける近藤勇がおり、意気投合していくのである。土方は天然理心流に正式に入門をしたのだが、このときの試衛館には近藤の他にすでに内弟子となっている沖田総司や門人となっていた山南敬助がいた。
そこから時が経ち文久二年十二月、将軍護衛のための浪士組と呼ばれる組織が立ち上がることになる。浪士組の募集に関する情報が試衛館に届き、近藤勇はこれに加わることを決意した。 当時の近藤が決意した理由として幕府のためという考え以外にも、試衛館の名を売る目的があったのではないかと考えている。このときの試衛館には、食客となっていた神道無念流の永倉新八、北辰一刀流の藤堂平助、種田流槍術の原田左之助が在籍していた。また、この時にはすでに離脱しているが斎藤一も試衛館に在籍していた。土方と同時期に在籍した井上源三郎も浪士組の出立に加盟し、浪士組の一員となって浪士組の参加のために京へ向かうこととなった。
壬生浪士組へ
浪士組の出立に先立って、浪士たちは小石川の伝通院の塔頭・処静院に集合するように命じられた。この浪士組の集合時に、後にもう1人の新撰組局長として京都で活動を共にする水戸浪士の芹沢と出会う。芹沢の同志には新見・平山・野口・平間の4人がいた。浪士組は二月八日に江戸を出て、京都へ歩を進めた。
上京後、近藤派閥と芹沢派閥で当時の京都守護職・松平容保宛てに「残留の願いが叶わず、浪々の身となりましても、天朝・大樹公の御守護と攘夷を行う決心です」と書き記した嘆願書を提出している。 この嘆願書は松平によって聞き届けられ、合計二十四人のリストが作成された。しかし、全員が協力することはなかった。残留決定後の三月二十五日に京都四条橋で殿内が闇討ちされ、家里も近藤派によって、一か月後に無理やり切腹させられたのである。これにより殿内・家里派は壊滅、他の人は脱走していき、最終的に残ったのは芹沢派六人と近藤派九人の合計十五人のみだった。その後は自分たちの名称を「壬生浪士組」とした。
壬生浪士組の結成後は人員集めに動いており、人員集めは近藤派、金策を芹沢派が担当していた。金策の借用書には、野口、永倉、沖田、土方の四人が連署し、保証書には新見、近藤、芹沢が署名をしていた。しばらくして、八月十八日の政変と呼ばれる事件が発生する。この政変で壬生浪士組は、誰もがイメージする袖口が白の山形模様となっている浅黄色の羽織を着用して政変へと出向き、朝廷から 「新撰組」と名をもらった。
新撰組
新撰組と命名されてからは組織の編成が行われた。組のトップとなる局長を芹沢と近藤の2人体制で行い、副長を新見、山南、土方の三人体制で編成、局長に関しては芹沢が筆頭局長として上に立っている状態であった。しかし、芹沢の乱暴狼藉を黙認できなくなった会津藩から直々に芹沢の処分が命じられた。まず、新見の乱暴な振る舞いを理由に切腹させ、三日後の十六日に芹沢を泥酔させて暗殺した。この暗殺以降は近藤派閥が新撰組を取り仕切る立場となった。
新撰組の活動が増えると、隊士をまとめ上げるためのルール作りとして幕府から「禁令四箇条」という決まり事が伝えられた。この「禁令四箇条」は「局中法度」の前身にあたる決まり事になったのではないかと考えている。実際内容としても「士道に背くことの禁止する、新撰組を抜けることを禁止する、局長などに無断で商人などから金を借りることを禁止する、勝手に裁判沙汰に関することを取り仕切ることを禁止する」という四つの禁止事項が記載された内容だった。「局中法度」はこの四つの禁止事項に追加で「私的な戦闘行為を禁止する」というものが追加されており、これらの違反を犯した場合は切腹しなければならないという内容であった。
活動を続ける中で新撰組は、慶應三年の六月に幕臣として取り立てられることとなった。そして、翌年始まった戊辰戦争に旧幕府軍として戦い続けたが、鳥羽・伏見の戦いで敗北後は新撰組が四散、その後の戦いでも敗北が続き、近藤が処刑された。その後土方は旧幕府軍として蝦夷に移って最後まで戦い続けたが箱館戦争で戦死してしまい、新撰組は新政府軍に降伏する形で終わりを迎えた。
土方歳三の人生観
彼の人生や行動を振り返ると「武士として礼節を重んじて生きる」という考え方を持っていたように感じる。また「武士らしく生き、武士らしく死にたい。世の中の移り変わりとは縁がないようだ」という言葉を残しているとも言われており、彼の武士に対する考え方や向き合い方を知ることができる。土方は士道不覚悟として、何人もの隊士を処分していたことによって「鬼」であると言われている反面、心の弱さを記す話も存在している。お雪という土方と親密にしていた女性に宛てた別れ際の手紙に「会えば辛くなるから、会わないで行く」という内容の手紙を書いているのだ。これにはお雪も「これほど心が弱い人がいるのか」とのちに綴られている。土方にはこのような「武士として人に弱さを徹底的に見せてはならない、弱さを無くさなければならない」という考えもあったように思う。
「人は弱いからこそ、己を律して弱さをなくす必要がある」といった考えや「周囲に流されるのは恥ずかしいことである。一度決めたことは自らの力で成し遂げなければならない」という己自身を縛り付けるような考え方の数々を文献で見るに、彼の人生観というのは「人の生き様は美しくあるべきであり、美しさとは礼節を重んじて、己の信念に従って目的のために進み続ける生き方であるべきだ。」というものなのだと推測をする。
土方自身や部下に与えた影響
土方の人生観だが、この考えが強く影響したであろう出来事が存在している。それは近藤との話し合いでの場面である。近藤が土方に官軍の軍門に下ることを決めた話をした時に、諦めず最後まで争い続けるように必死に説得をしていた。しかし、近藤は「もう疲れた、自由にさせてくれ」と答え、これに対して「凧は風が吹けば高く飛び上がるが、風が止まるとそれまで。俺は自力で飛び上がる鳥になる。」と自らに言い聞かせており、このことからも彼の人生観となっている「生き様へのこだわり」や「進み続ける意思」が伺えるだろう。 他にも、朝敵とされて賊軍となっても戦い続けたこともこの人生観からの行動であったと考えている。
次に部下との関係、与えた影響について考える。土方は副長としての役割を果たすために厳しく振る舞い、部下に「鬼の副長」として恐れられていたが、育成面は熱心な指導者の一面を見せており、自ら手本を見せることで剣術の指導を行なっていたり、戦場では部下を救いに出るなどしていた。そのような姿を積極的に部下に示し続けることで恐怖の他にも憧れや安心感与えており、組織の士気向上にもつながっていた。 やはりこの行動にも彼の人生観である「美しい生き様」が反映されているように感じる。彼の人生観は部下たちに振る舞いでの恐怖と積極的な姿勢を示すことの安心感を感じさせ、「進み続ける」意思が伝わることで、部下の戦闘ににおける勇敢さや死に対する覚悟、士気の維持が可能となるような影響を与えたのだと考える。
まとめ
本研究では,土方歳三の生涯を新撰組の歴史と共に振り返った。この際、土方の行動や考え方に着目して研究を進めることで土方の人生観がどういったものなのかを調べた。
研究の結果、土方の行動や言動の記録から「人の生き様は美しくあるべきであり、美しさとは礼節を重んじて、己の信念に従って目的のために進み続ける生き方であるべきだ。」という人生観を持っていたのではないかと結論づけるに至った。
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